お清め風水~歴史から学ぶ!お清めっていつから?~

そもそもお清めっていつからやってるの?そんな疑問にお応えします!風水では「忘れられた過去に未来がある」といいます。いつの世も、天の理はかわることはありません。未来を知りたければ、まず過去を知ること。さらに過去を知ることによって、私たちは先人が残してくれた知恵や教訓をいう、貴重な財産を得ることができます。風水をより本格的に活かすためにも、そのルーツを知ることは大切なのです。

 そもそも風水っていつ日本にやってきたの? 

風水は今から3000年以上もの昔に中国で生まれ、時代とともに発展してきた帝王学であり、環境開運学です。

風水は正しくは、「風水地理」といいますが、中国の陰陽五行説や易経(えききょう)などを吸収し、やがて平安仏教の伝来とともに日本に伝わってきたといわれています。風水の考えを日本に持ち帰ったのは、平安時代初期の804年に中国の唐に渡った最澄(さいちょう)でした。

最澄は後に風水地理の理論を、「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」と名付けた書にまとめ、黒い箱に収めました。そして、「是唯一人之極秘法(これただひとりのごくひのほう)」として、時の天皇に奉じたのです。

この黒い箱は、桓武天皇をはじめとし、その後、代々天皇家に伝えれれていきました。

こうして風水は国づくりや町づくり、あるいは政権掌握の手段として、時の為政者たちに活用されはじめたのです。

 風水ブーム再来!

歴史を詳しくたどってみると、日本では400年に1回、風水の大ブームが起きています。最初のブームは794年の平安京遷都、2番目は1185年の鎌倉府設立、3番目は1603年の江戸幕府設立。そして4番目が「現在」です


 日本の風水の基礎は縄文時代にあった 

平安仏教の伝来とともに風水がやってきた」と述べましたが、実はそれよりはるか昔の縄文、弥生時代からすでに、日本の風水ベースはできていました。

 先人たちの考え方

今から1万2000年前の縄文人たちは、あらゆる大自然に「霊魂」が存在すると考えていました。人間に恵みを与えて豊かにしてくれるのも自然環境なら、一瞬のうちに生活を破壊してしまうのもまた自然環境です。

その結果、人々は大自然に宿る精霊たちをおそれ敬い、そのパワーを上手に取り入れながら暮らすようになりました。この考え方が、後にわたしたち日本人の心の底にある宗教感、つまり神や仏についての考え方の基本になったのです。

農耕文化がはじまる弥生時代には、太陽や水、土などの大自然に祈りを捧げて、豊かな実りを願う農耕神の祭りがはじまりました。今日の「豊穣際」「収穫祭」などの神社のお祭りは、これが起源になっています。

 陰宅風水

この時代になると、集落の近くに方形周溝墓(ほうけいしゅこうぼ:周囲を方形の溝で囲んだ墓)や墳丘墓(ふんきゅうぼ:土を盛った墓)というお墓が出現しました。つまり、生きている人間と亡くなった人間の境界線を、はっきり区別するようになったのです。

「祖先は死してなお一族の繁栄を見守り、お墓(遺骨)から子々孫々にパワーを与え続ける」という陰宅(いんたく:お墓)風水の基本的な考え方は、このころ生まれました。

そのころ中国では、秦の始皇帝が風水の考え方をまとめつつあったとされています。

さて、インドで生まれた仏教は、後漢の時代に中国に伝来し、その後朝鮮半島の百済に渡ってから、6世紀半ばに日本に伝わりました。このときすでに、風水のごく基本的な考え方も伝わってきていたことは、当時の古墳をみれば明らかです。たとえば奈良の高松塚古墳は、陰宅風水を取り入れた代表的な遺跡とされています。


 風水で中央集権国家を強化した聖徳太子 

「陽基(ようき)」と呼ばれる、生きている人間が使う建物の風水は、どのように用いられていたのでしょうか。

聖徳太子が、叔母の推古天皇から国政を任されたのは、593年のことでした。

聖徳太子は、「冠位十二階」や「憲法十七条」を定めただけでなく、隋の国に使いを出して中国文化を積極的に取り入れた人です。彼は都のまわりにたくさんの寺院を建立するなど、周囲の環境を整えることによって風水パワーを強力に作用させ、天皇のパワーを強化しながら中央集権国家の土台を築きました。

このときから、後の元明天皇が710年に都を奈良の平城京に定めるまで、天皇が代替わりをするたびに都が移されました。とはいっても飛鳥地方を中心に、現在の奈良、大阪、滋賀を小刻みに移動していただけなのですが。

しかし、これは風水的にみると非常に理にかなった方法です。「木造の建物パワーはおよそ20年続く」と風水では考えますが、6~7世紀当時の建築方法を考えても、その耐用年数はおよそ20年といわれています。

 日本の風水とは

天皇が代替わりをするたびに行政の府を移すということは、パワーを失った建物から出て、新しいパワーに満ちた建物に移るという効果をもたらしました。この時代の天皇がたどった道のりを見てみると、推古天皇から元明天皇まで南北の移動が目立って多いことがわかります。南北の移動は、風水では「体制の変化をはっきりさせる」「システムを立て直す」というパワーがあると考えます。今ほど風水が発達していなかった当時は、時の為政者たちがカンを頼りに、なかば「場当たり的に」吉地を探していたのでしょう。

今日の「日本の風水」は、そういった先人たちの経験や結果の積み重ねによってできているのです。


 長岡から平安への遷都は、怨霊から逃げるため 

歴史に詳しい人ならご存知かと思いますが、桓武天皇が即位したあと、奈良の平城京から直接京都の平安京に遷都したわけではありません。実は平安京に移る前に10年間だけ、奈良から京都の長岡に都を移していたのです。

 歴史が物語る風水

奈良から長岡京は、方位でいえば北。北には「信頼を深める」「結束を固める」というパワーがありますが、凶作用が働くと「身内から裏切られる」「内部闘争が起きる」という方位です。

実際、桓武天皇の周辺には次々に不幸が起こりました。長岡京造営の責任者として活躍した藤原種継が遷都の翌年に暗殺されただけでなく、妻の病死、実母の急逝、皇子は病に倒れ、都では天然痘が猛威をふるって多数の死者が出て、天候不順による凶作まで続きました。さらに792年には2度にわたり、桂川の大洪水が長岡京を襲ったのです。「これはただごとではない!」と不安を覚えた桓武天皇は、とうとう長岡京を捨て、風水師・和気清麻呂(わけのきよまろ)のすすめで再び遷都を決めたのです。

清麻呂は、長岡京から表鬼門の方位(=東北)である京都盆地を、新しい都の地に選びました。表鬼門は、「変化」「脱出」「相続」「革命」のパワーをもつ、一発逆転の方位です。恐ろしい怨霊のはびこる土地から脱出し、心機一転を図るには、まさにうってつけでした。

また、平安京が造営される前、そのあたりの土地には風水に詳しい百済の帰化人が数多く住んでいました。「怨霊や魑魅魍魎に邪魔されず、きちんと風水を整えて国を治めなければならない」と決意した清麻呂は、「この土地なら帰化人たちの知恵や技術を借りて、風水を活かした頑強な都づくりができる」と踏んだのではないでしょうか。

長岡京で不安なときをすごし、新しい土地に安らぎと平安を求めた桓武天皇は、794年10月にこの都に移り、「平安京」と名付けました。以後この都は400年間の長きにわたり、日本の政治や文化の中心として栄えることになったのです。


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