お清め風水~歴史から学ぶ!頼朝と家康の風水~

歴史から風水を知るのもとても興味深いものがありました。一部ですがご紹介します。

 源頼朝は風水を徹底して権威を示した 

争いの少なかった平安の時代も、政治を顧みず、毎日ぜいたくに暮らす貴族たちによって徐々に統制がとれなくなり、乱れてくるようになりました。

風水で吉相につくられた都も、さすがに400年近く経つとパワーが衰えてきます。

堕落した貴族の代わりに力を持つようになったのが、平氏と源氏という武士の2大勢力です。貴族側についた平氏と、武士の代表である源氏は何度かにわたって激しい戦いを繰り広げますが、平氏はしだいに西へ西へと追いやられ、1185年、ついに現在の山口県にある壇ノ浦の合戦で、あえなく滅びました。

「西方浄土(さいほうじょうど)」という言葉があるように、西は「あの世」を表す方位とされています。平氏一家が西の地で果てたのも偶然ではなく、何か目に見えない、大きな力が働いていたのかもしれません。

さて、それまで関東地方を根拠地に活躍していた源頼朝は、鎌倉を根拠地と定め、同年に鎌倉幕府を開いて武家政治をはじめました。幕府の設立年については諸説ありますが、頼朝が朝廷に日本全国へ守護・地頭の設置を認めさせ1185年が現在の通説となっています。「いい国(1192年)つくろう鎌倉幕府」の語呂合わせに馴染みのある人は、少し困惑してしまいますよね。

 頼朝が「鎌倉」を選んだ理由

もともと鎌倉が頼朝の本拠地であり、東国(あずまのくに)の武士をまとめるには絶好の地だったこともありますが、何よりもここは風水的にいい土地だったのです。

「馬蹄形の土地は吉地」と前述しましたが、鎌倉もまた、北、東、西の三方を小高い丘や山に囲まれ、残りの一方が海として開けている大吉地です。万が一、外部から攻撃されても身の安全を確保しやすいのはもちろん、このような土地は人が住みやすい地形でもありました。政権をにぎった頼朝が真っ先に行ったのが、当時由比ケ浜にあった鶴岡八幡宮を参拝することでした。八幡宮の祭神は応神(おうじん)天皇ですが、当時は「武門の守護神」として武士たちに仰がれていました。

 八幡系統の神社

八幡系統は本来、「たたり」を鎮める神様として知られています。人を討つことによってのし上がらなければならない武士たちは、どうしても怨霊やたたりにとりつかれやすいという考え方から、八幡様に守ってもらおうとしたのでしょう。

神社に詣でた頼朝は、神意を受けてすぐに鎌倉の地に八幡宮を建て直し、「源氏の守護神」「関東の総鎮守」としてあがめ、そこを中心に都をつくりはじめました。また、自らの住居は宮の東側にかまえ、「格上の祖先や神様は西に祀って守護してもらう」という風水も実行しました。

鶴岡八幡宮の本殿は、南西の裏鬼門を向いて建っています。これは、「安定」「子宝」のパワーを大地から吸収する風水です。

 頼朝が行った風水

頼朝は八幡宮を起点として、東北の表鬼門方位に一直線に伸びる「若宮大路(わかみやおおじ)」をつくりました。表鬼門は「相続」「世継ぎ」の方位ですから、参拝客が大勢訪れるたびに、頼朝家には鬼門のパワーがどっと入ってくるようになりました。

これは、長年の戦いでようやく勝ち取った武家政権を安定させようとする、頼朝の願いにほかなりません。まさに鶴岡八幡宮は、源氏の家運隆盛(りゅうせい)、政権安定を願う「鬼門風水」によって建立されたのです。

さらに、八幡宮に続く若宮大路の中央を一段高くすることによって、幕府は「格の高さ」を周囲にアピールしました。

風水では、「格を上げ、威厳を保つには、一段高い地に建物をかまえよ」というルールがありますが、頼朝も地理的な高低差によって、幕府の地位と権力を世に示そうとしたのでしょう。

この徹底ぶりはまったく見事というほかありません。時の偽政者はこのようにして、多くのお金や労働力を駆使して大がかりな風水を施し、天下を収めようとしたのです


 徳川家康は風水の天才 

日本の歴史上、風水を最も上手に使った人物がいます。江戸幕府を開府した徳川家康です。家康は風水によって、戦国時代の混乱のあとに平和と発展の基礎を築きました。

江戸幕府は大きな戦争も起こさず、15代将軍・徳川慶喜が朝廷に政権を返すまで、およそ260年も平和を維持したのです、これは日本の歴史を振り返っても、類を見ないことです。

400年以上も昔、家康は江戸湊(えどみなと:今の東京湾)に面する荒れた湿地帯を開発して、「江戸」という当時としては世界一の大規模な都市に発展する基礎を築きました。家康は風水の力を最大限に利用して江戸の町を広げ、政治や経済のシステムを整え、日本という国を大きく発展させました。

 家康が行った風水

当時の最先端の科学といえば、風水でした。風水を信じ、日本という国の幸せを願って、前に進んでいったのでしょう。もちろん、並はずれた直感力やインスピレーション、運にも恵まれていたのだと思います。

「時代のサイクルは400年でひと区切りだから、日本にこういう環境をつくっておけば、江戸の時代これから300年くらい長く栄え、やがてこういう風に終わりを告げるだろう」と、そこまで家康は考えいたのかもしれません。

「私が死んだら、江戸城の真北にある日光に亡骸を埋めなさい。そうすれば、私は日本の守り神になろう」といい残して、家康はこの世を去りました。今でも、家康の祀られた日光東照宮にはたくさんの人が訪れますね。

かつて江戸城のあった皇居や、表鬼門(東北)に建てられた上野の寛永寺(かんえいじ)、裏鬼門(南西)に位置する芝の増上寺(ぞうじょうじ)などを歩いて回ったり、家康について書かれた本や資料に目を通したりするたびに家康のすごさに感動します。

ちなみに、家康が鬼門の守りとして建てた寛永寺と増上寺を直線で結ぶと、そのほぼ中心に江戸城がきます。この正確さは、決して偶然とは思えません。

 江戸城内の風水

家康は、江戸城内のあちこちに風水を施してきました。

江戸城は、敷地の広さは南北におよそ4キロ、東西でおよそ5キロもあり「内堀で囲まれた内郭に、大阪城がすっぽり入ってしまう」といわれるほどの、名実ともに「日本一」の城でした。

江戸城の内郭は本丸、二の丸、三の丸と、西の丸、紅葉山、および吹上御庭から成り立ちます。江戸城の心臓部にあたるのが本丸です。本丸には、高さ48メートルの5層の天守閣がそびえていました。これは、当時における日本一の高さの建物です。

家康をはじめ歴代の将軍はふだん、本丸御殿で日常生活を送り、そこで財務や儀式も執り行っていたようです。本丸御殿の敷地は南北に細長く、南から「表向き」「中奥」「大奥」の3つに区分されていました。

 風水効果

「間取りが南北に細長いと知恵やお金をじっくりたくわえ込むようになり、東西に細長いと夢に向かって走るようになる」といいます。いわば前者は大人向けの間取り、後者は若者向けの間取りです。新しいシステムの安定を願った家康が選んだのは当然、南北に長い間取りでした。

 本丸御殿の風水効果

<表向き>

南側にある「表向き」は、儀式や将軍の謁見を行う場所として設けられました。

<中奥>

将軍の生活する場所や政務を司る場になっていました。家康はこの中奥で、小鳥をかごに入れて飼っていたそうです。中奥は本丸の中心にありますから、「中心に鳥かご」の風水を実行していたことになります。

これは、金運と人間関係運を上げる風水。「江戸にお金がたくさん入って栄えるように」「人間関係がスムーズに機能するように」と、家康は願ったのでしょう。

<大奥>

中奥から御鈴廊下でつながる本丸御殿の北側、つまり「大奥」は、将軍の正妻や側室、将軍の子ども、奥女中などが生活する場で、将軍の私邸になっていました。

大奥のある北は愛情、信頼、子宝の方位、表向きのある南は知恵、判断、決断の方位、そして中奥のある中心はすべての幸運が集まる方位ですから、本丸御殿は風水の理にかなった建物だったといえます


 風水関連記事